2017 年 10 月 3 日
加瀬邦彦氏顕彰 - 古賀政男音楽文化振興財団
加瀬邦彦氏のことは、以前にもブログ「童心に帰る」で紹介した。2015年に氏が亡くなった時のコメントである。その加瀬邦彦氏が、昨年、古賀政男音楽文化振興財団から顕彰された。それを記念して、古賀政男音楽博物館で記念の講座があった。参加した。
まず古賀政男音楽博物館について。古賀政男氏は、明治の生まれで昭和を代表する作曲家の一人であり、いわゆる歌謡曲の作曲家としては歴史的な意味も含めて第一人者であろう。代表曲は東京ラプソディーだろう。昭和10年代の作品だ。古賀邸があった代々木上原の地にその博物館はある。古賀政男氏の旧家の様子を再現しながら、氏の偉業を展示しているのが主だが、その一角に顕彰者展示コーナーがあり、大衆音楽に貢献した人々を財団が顕彰し、パネルやレコードのジャケットなどで紹介している。作曲家、作詞家、歌手、プロデューサーまで幅広い。
昨年、加瀬邦彦氏が顕彰されての今回の講座は「第22回歌い継ぐ会」というもので、その人を紹介しゆかりの人々が思い出について話し合う、代表曲をレコードや現役の演奏家が演奏するといったもので、定期的に開催されているようだ。
今回は、加瀬邦彦氏を語るということで、ワイルドワンズのメンバー3人と氏の次男の友貴氏が出演した。思い出を語るコーナーでは、学生時代からワイルドワンズを結成するまで、1971年に解散してからのこと、1981年に再結成してからのことなどを興味深く紹介していた。
加瀬邦彦氏は幼稚舎から慶應大学だったというから、家柄は良いのだろう。高校の時、自宅のあった茅ケ崎で加山雄三氏に出会い、エレキギターを習う。その後、大学でアマチュアバンド、卒業後はスパイダース、ブルージーンズなどに参加し、ビートルズの影響で4人編成のバンドを結成する。ワイルドワンズである。
この講座で話されたことは、もちろんファンとしては既知のこともあったが、興味深いこともあった。当時、グループサウンズブームでいろいろなバンドが売れはじめ、各人の収入が多くなったという。多くのグループのメンバーはギャンブルに走り、裏ではかなり不道徳なことが行われたという。ワイルドワンズは、加瀬さんの方針でそういうことは一切せず、公演の合間には皆でハイキング、釣りなどをして過ごしたという。この経験が、グループの一体感を生み、内部分裂を起こさなかったと、彼らは述懐していた。
1971年にワイルドワンズが解散したとき、解散コンサートを杉野講堂で行ったという。最後のあいさつで、加瀬さんは「学生だった3人を、生活が不安定な芸能界に引き込んでしまった。ここで解散することについては、親御さんに申し訳ない。」とステージの上から謝ったという。ここにも彼の人柄があふれている。
ワイルドワンズ解散後、加瀬さんは沢田研二のプロデューサーをする。楽曲「トキオ」ではパラシュートの衣装を考えたりして、世間をアッと言わせるわけだが、その前後に沢田研二が厚めの化粧をして歌った曲がある。当時の渡辺プロの幹部は人気歌手の男に化粧をさせることには反対だったらしいが、アメリカでは男性が化粧をしている歌手が人気を得ていることから「やがて日本でも誰かがそれをやる。やるなら沢田研二にやらせたい。」と企画を通したという。
一歩進んでしまっては、大衆はついて来ない、半歩進むことが大切だというのが持論だったという。私生活にも言えるのではないか。
いずれにしても、加瀬さんがいたから、ワイルドワンズは1981年に再結成し、メンバーが70歳を超えてもなおバンド活動をしている。今も年間80ほどのステージをこなすという。当時のグループサウンズ唯一のグループとしての現役である。長く続くのは、人間関係が良いからだろう。
加瀬さんは、ケネディハウスで何度かお見受けして言葉も交わした、私は単なるファンの一人にすぎないのだが、亡くなったことは返す返す残念でならない。遺作となった楽曲「蒼い月の歌」が氏の人柄を表している。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )